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PERSONAL ATELIER & GALLERY GREEN RENAISSANCE

HOLY PRIEST SINRAN‘S YOUTH親鸞聖人

親鸞聖人童形像

活動報告写真


 親鸞が生を受けたのは平安時代末期の承安3(1173)年。平安末期から鎌倉時代にかけて、戦乱や災害、疫病などで世が乱れる。その中で、人々が救いを求めたのは、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰もが極楽浄土に往生できるという浄土宗の教えでした。九歳の春、範宴(親鸞聖人)は、叔父の日野範綱卿に伴われて、京都の青蓮院で出家したと伝わっています。出家の際に当時の院主、慈円が「もう夜なので、得度(髪を剃って僧になる儀式)は明日にしよう」と告げた慈円に対して範宴(親鸞聖人)は次の歌を詠んだそうです。
「明日ありと思ふ心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
(明日があると思っていると、夜中に嵐があって、美しく咲いている桜も散るかもしれません)という歌で即答したというこの歌に気持ちを動かされた慈円は、すぐに儀式を行い範宴という僧名を与えた逸話があります。

【制作年度】令和4年 (2022年)
【設置場所】信光寺(山口市)
【素材】ブロンズ


親鸞聖人青年像

活動報告写真


 29歳の時、苦悶の中に六角堂に参籠を経て法然聖人を訪ねた頃を
イメージし制作。

【制作年度】平成24年 (2012年)
【設置場所】信光寺(山口市)
【素材】ブロンズ

 親鸞聖人は比叡山の教えと決別し、山を下りて六角堂に籠ります。
六角堂は聖徳太子が開いた寺として有名です。聖徳太子が観音菩薩となって夢の中の現れ、この夢告を契機として、親鸞聖人は東山の吉水で念仏の教えを説いていた法然聖人を訪ねた。頼朝の没後2年目の29歳の時でした。法然聖人と出会ったことで、親鸞の信仰は重大な転機を迎えたのかもしえない。



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